史蹟
武田竜宝(武田信玄の次男 信親)
終焉の處
540年続く浄土真宗 世襲の寺。
長享元年(1487)、村上天皇の子孫である六条有成が、蓮如上人によって得度し、浄閑と名乗り甲斐に来て武田氏の庇護のもとに草庵を営み、開山した寺で「長元寺」と言いました。
二代誓閑の時に現在地に移り、三代栄閑の時に「入明寺」と改められました。 「一向宗」とのつながりを求めた信玄が、公卿の出である入明寺住職に話をして、誓閑、 石山本願寺代十一世法主 顕如上人の裏方(三条左大臣公頼の息女)の姉と信玄との婚姻をとりもち、後の正室三条夫夫人となり、義信、信親(竜宝)等の母となる。
武田龍寶終焉之處 -武田信玄の血脈
武田竜宝(信親)は、信玄と正室三条夫人の次男として誕生しました。目を患い半僧半俗の生活をし御聖道様とも呼ばれたが、同時に信州海野城主であり海野二郎信親と名乗る武将でもありました。信玄の後を継いだのは四男勝頼でしたが、その勝頼も信長との戦いに敗れ、天正10年(1582)、武田勝頼が天目山の戦いで敗れると、信親は入明寺境内で自刃(42歳)。寺には、位牌や武田家8代護信作の信親の木像が伝えられています。
竜宝の死後、その嫡子信道(三代)は、武田家の嫡流として世に道快御坊と呼ばれました。一向宗(浄土真宗)である甲府の長延寺(現 光澤寺)の二代住職を継ぐ。江戸期に入って信道は、大久保長安の事件に連座し、「武田家の再興を企てた」との幕府の嫌疑を受けて伊豆大島に配流され同島で没した。その後、信正(四代)は50年の蟄居生活から赦免され、元禄14年(1701年)五代信興は柳沢吉保の推挙により表高家に列せられ、
代々信玄同様の官位を授けられる。
国、ならび山梨県は詮議の結果信玄の正統は竜宝公が子孫であることが確認され、御贈位の御沙汰を拝した。
入明寺境内に建つ武田竜宝の墓は昭和十八年県史跡となる。
信玄の子供
義信・・・・・正室三条 嫡男 信玄に背いたと幽閉の後自害
竜宝・・・・・正室三条 次男 武田家の正統 子孫伝承す
信之・・・・・正室三条 三男 早世
勝頼・・・・・側室諏訪 四男 戦国大名としては滅亡
盛信・・・・・側室油川 五男 仁科五郎盛信 高遠城で戦死
信貞・・・・・側室弥津 六男 葛山十郎 東光寺にて斬首
信清・・・・・側室油川 七男 安田信清 米沢の武田の祖
女子・・・・・正室三条 北条氏政室(黄梅院)
女子・・・・・正室三条 穴山梅雪室(見性院)
女子・・・・・側室油川 木曽義昌室
女子・・・・・側室油川 松姫さま 信松尼
女子・・・・・側室油川 上杉景勝室(お菊御料人)